愛想の良いのは
・・・たとえ少々C調でも、明るく愛想よく人好きのする人は、端から見ていても気持ちが良い。学校・会社・近所、皆からやっぱり好かれて、なおマメに思いやりある行動が出来れば、それこそが人格者というものだろう。
対して無愛想なヤツは、やっぱり疎まれる。世間様の評価も低くなるし、場合によってはブスっとしていることが収入の低下にも繋がる。交友関係も寂しいものになったり、そうなると老後も危うい。
というわけで、今は、愛想よく話す「話し方講座」とか「笑い方講座」とか、心理学的なノウハウをもとにした「思いやり講座」なんてのもあるらしい。それぞれ内容はバカに出来ないどころか、目から鱗だと聞く。例え形から入っていっても、繰り返していけばやがて嘘も誠、身になっていくだろう。
しかしねえ。
講座や、数々のメンタルトレーニングを、どうこう言うつもりはない。問題は、そういうった「愛想の良いことは得だ」「人は愛想良くあるべきだ」といった、画一的な「基準」「尺度」が、はびこっていることが気にくわない。人間を「愛想」などという、貧弱な物差しではかることが、気にくわない。
人にレッテルを貼るわけでしょう? 危険だと思うぞ。本当の人間の価値は、愛想振りまけるかどうかに掛かっているのか?? 陰で舌を出しているヤツとかも多いぞ。
個人同士ならまだ良い。問題は組織が権力者が、上っ面のマニュアル化された物差しでしか人物評価が出来なくなる。これはサラリーマン等にとってはたまらないぞ。
してさらに、世間がそういった、人間を型にはめ込んで、決まった角度でしか観ないことに、批判や抵抗がないことも、気にくわない。会社の面接で失礼なことを言われたら、暴れて部屋の一つでも破壊するぐらいのヤツが居ても、良いと思うんだ。(この就職難に無責任だけど)
ひとつの物差し、ひとつのマニュアル、一つのテキストで、人間を計る。そのケースが、多過ぎやしませんか?