五線親父の縁側日誌

永遠の70年代男・テリー横田の日誌です。

筆者は田舎の初老爺、下手の横好きアマチュア作曲屋、70年代洋楽ポップス愛好家、70年代少女漫画愛好家、
女子ヴァリボ&フィギュアスケートオタ、Negicco在宅応援組です。

夜回り先生


夜回り先生水谷修さんのエッセイ~中日新聞サイト

http://www.chunichi.co.jp/article/feature/yomawari/


・・・この方、横浜で高校教師をされながら、長年生活指導として「中華街の夜回り」をしてきた先生です。結構有名な方ですね。たむろする中学生高校生に、補導するのではなく「声をかけ、話を聞いて」。今は大学のほうに職場を移したそうですが、講演などで地方に行った際とか、現在も最低でも週1回は「夜回り」を行っている、そうです。


この水谷先生のインタビューを、先日テレビで見たんですが、自分の子供の頃から若い頃の体験とかを語って、これがなかなかかに感動的なんですね。


横浜生まれなんですが、幼い頃家庭の事情で母親と別れ別れ、山形の祖父祖母のもとで小学校時代をすごした。母と逢えるのは年に一回。逢ってまた別れる日、駅で電車が走り出しても、窓から手を握り合って、電車を見送った後、1時間歩いて帰り道が辛くて泣いたこと。


中学からは横浜に戻ってお母さんと暮らせるようになったようですが、今度は山形弁を馬鹿にされたり、そうでなくても思春期で、あれほど好きだった母親に当たることもあったようです。このお母さんも先生をしていたんですが、その姿を見ていたんでしょうか、いろいろ軋轢を繰り返しつつ、やがて自分も教師を目指すようになります。


最初に配属されたのは養護学校。障害児の生活の世話に疲れ果てた。ある日おもらしをした子のおしりを、気がつかず冷水のシャワーで洗ってしまった。子供は悲鳴を上げる。はっとわれに返った時、先輩教師の鉄拳で吹っ飛ばされた。「お前は何様だと思っているのか。子供を見くだす、してあげる意識があるのではないか!」と。ぐうの音も出なかったといいます。


やがて定時制高校へ赴任。生活指導として夜回りを始めます。最初はこれほど入れ込むつもりはなかったのでしょうが、行ってみて初めて「寂しい子供の多さ」に驚きます。自分の幼少期・思春期と重なる姿。そして密かに子供たちに忍び寄る「薬物汚染」・・・


「シンナー中毒の子供を自宅で預かり、寝食をともにして面倒を見ていた。だがある日、その子と言い争いをして、彼は出て行ってしまったんですね。そしたら翌日、その子がトラックにひかれて死んでしまった。シンナーでふらふらだった。」と。


この体験があって、先生は一生を賭けて「少年少女の薬物使用」と戦う決意をしたようです。お医者さん、保護司、警察、いろいろなところを回って、ネットワーク作りをし、そして夜回りも平行して行うと。


「薬物中毒の子供を失ったのは、これ一度ではないんです。治療の長さ辛さから自殺した子もいます。僕は未熟で救えなかった。でも今なら、若い頃よりは、ちょっとは救えるんじゃないかと思ってやっています。」


「人に人は救えないです。私も声高に何を言っても、結局子供らは自分で越えるしかない。ただ一つ言うのは「人のために何かをしてごらん。そこから道が開けるから」ということだけ。子供たちは「ありがとう」と感謝される体験がなさすぎるんです。ありがとうといわれ、必要とされていることで広がる心の充実、これがすべての救いの道のはじまりなんです。」


この先生も、著述や講演でのナリワイを選んだことに対して、批判もあります。でもやっぱり、本気じゃないと出来ない。上記のページ、ずらりと並んだエッセイは「子どもたち」への呼びかけ。孤独と優しさ、生と死の問題、私も少しずつ、読んで行きたいと思います。