五線親父の縁側日誌

永遠の70年代男・テリー横田の日誌です。

筆者は田舎の初老爺、下手の横好きアマチュア作曲屋、70年代洋楽ポップス愛好家、70年代少女漫画愛好家、
女子ヴァリボ&フィギュアスケートオタ、Negicco在宅応援組です。

苦しい新社会人の方へ


新社会人、働きだして1~2年の頃って、ものすごい苦しかった。


自分は最初は、コンピュータ・プログラムの会社に入った。オフィスにパソコンが入り始めた頃で、まだN88-BASICだのDOSだのの世界。ウインドウズもエクセルマクロもなかったのよ。ところがこれが、やっぱりわからない。数学の世界だからね。自分はなんて馬鹿なんだと本気で落ち込みました。


胃が痛い思いをしながら続けていたが、ある仕事が親会社の設計ミスもあり暗礁に乗り上げた。バブル時期で猛烈に皆働いている頃だが、やってもやっても間に合わない。土地勘のない某東京郊外に派遣され、寮のたこ部屋で4人寝起き。仕事は毎日午前様、休みは月1回のみ、っていう地獄の日々が半年以上続いた。案の定ぼろぼろになりましたよ。で退職して、2年ぐらい引きこもりもやりました。


で、同じ頃から、DTPと呼ばれる、コンピュータを使った広告印刷作成ね。その仕事が、世間で徐々に普及してきた。ワタシは「これだ!」と思いましたね。漫画家志望で挫折したとはいえ、一応絵は描けたし色の組み合わせとか構図とか、大体なんとかなりそうだった。で、いろいろ口をきいて貰ったりして、印刷屋にもぐりこんで働くことになりました。


ところがここでワタシが真っ先にやらされたには「写植」と呼ばれる、きわめてアナクロな印刷版下の作り方。コンピュータはまだ導入されてなかったのですね。でそこで、昔ながらの「活字組み版」ルールを、結構厳しくたたき込まれた。反発しましたよぶーぶーと。でも今考えれば、その基礎があったおかげで、いざコンピュータ(MAC)が入ったときに、それほどクオリティを下げることもなく移行できた。当時しごいてくれた営業さんには感謝しています。


今はそこの印刷やさんも店じまいして、ワタシは某会社の下請けの、広報広告部の仕事をしています。DTPとウエブデザインと、時にはプログラマの部署と協力して画面デザインをやったり、そういう毎日です。


自分が何者か解らない20代前半とかは、本当に苦しい。でも、自分のやってみたいことがあったら、まずあきらめないこと、そして楽観すること。「なんとかなるべ。いつかは好きな仕事につけるべ」と、根拠が無くても信じてしまうこと。さらに、周りに「こういう感じの仕事がしたいんだけど…」ってなことを、吹聴しまくること。どこかから聞きつけて来る人が、居ないとも限らないでしょ? 何より宣言してしまうと、やらざるを得なくなって、自分自身もその方向を向くことになる。ここが大事なことです。


求めよ、さらば与えられん、ですよ。