五線親父の縁側日誌

永遠の70年代男・テリー横田の日誌です。

筆者は田舎の初老爺、下手の横好きアマチュア作曲屋、70年代洋楽ポップス愛好家、70年代少女漫画愛好家、
女子ヴァリボ&フィギュアスケートオタ、Negicco在宅応援組です。

たかが音楽、されど音楽、でもやはり、たかが音楽


あらためて書くが、たとえばビートルズにせよ、私の敬愛するスティービー・ワンダーにしろ、この間なくなったキヨシローやマイケルにしろ、本当にすばらしいミュージシャンだ。私は彼らの音楽で、確実に人生が変わった。彼らの音楽がなかったら、人生は灰色、自分に自信を持てることも見つからず、自殺していたかもしれない。


でもそうは言っても、世の中の大多数の人にとっては、ロック・ミュージックは、無いと生きていけないほど、切実なものではないだろう。いや音楽に限らず、映画やエンタテイメント全般がそうだ。生活必需品ではないのだ。だから、どんなに素晴らしい音楽でも「たかが音楽、所詮歌舞音曲」という捕らえ方も可能になる。少なくとも、音楽屋が、あまり音楽に興味のない人を責めることはできない。


マチュアバンドマンはその音楽活動に、リスナーやファンはCDを買ったりライブに行ったり。それぞれ結構な労力をつぎ込んでいる。時には命がけで音楽に接するケースもあるかもしれない。そこにプライドを持つのはいいことだが「音楽が最高のものだ!」という考えに、どこか「おごり高ぶった、上から目線のような」気持ちを抱いていないだろうか。「しょーもないことにうつつを抜かして」という、うちの親の意見のほうが、本当は正しいのではないだろうか。


これは自分の場合なんだが、ロックを語っていて、相手に「ふーん」とか気のない風に言われると、ちょっとぶち切れる。あと若い、楽器初心者さんとかに逢って、えらそうに練習のコツとか、いらぬアドバイスをする自分が、優越感を持っていることに気がついて、はっとする時がある。


「たかが音楽、されど音楽」自分は今まで「されど」の方を信じ、重視してきた。でも、あえて逆の「たかが」のほうも、これからは自戒の意味で、尊重してみようかと、ふと思うようになっている。