五線親父の縁側日誌

永遠の70年代男・テリー横田の日誌です。

筆者は田舎の初老爺、下手の横好きアマチュア作曲屋、70年代洋楽ポップス愛好家、70年代少女漫画愛好家、
女子ヴァリボ&フィギュアスケートオタ、Negicco在宅応援組です。

ジェロの必然


演歌は大嫌いです。


実家がカラオケスナックだったこともあって、子供の頃から酔っぱらいのど演歌を夜な夜な聴かされてきて、つくづく嫌になったのだ。恨みがあると言ってもいい。


そんな私が、昨晩テレビで、黒人演歌歌手・ジェロのドキュメンタリー番組「僕は演歌で生きていく~歌手・ジェロの1年~」ってのを、何気なく観るともなしに観てしまった。で結局最後まで、結構感動して観てしまった。(ーー;)


何がよかったか。


まず彼ジェロの母親の、晴美さんという方。この方が、やはり大変苦労されたようだ。当然日本人とのハーフなんだけど、中学校までは横浜で過ごして、そこで強烈ないじめに遭っていたという。あまりにつらくて、自殺未遂まで起こしたことを告白している。このへんは日本人としては大変恥ずかしいことなんだけど……。で、晴美さんのお母さん……例の、ジェロに演歌を教えた祖母の多喜子さん……は、諸事情あってアメリカで、母娘は離ればなれの時期が長かったらしい。たまに逢っても衝突したりで、関係はかなり微妙だったようだ。後にはもちろん母娘はアメリカの地で和解したからこそ、今があるのだけど。


この母娘、ともに異邦人・ストレンジャーであり、日本への、愛憎相併せ持つ複雑な郷愁感情を共有していたはずである。それが母娘の絆をつなぎ、演歌を歌うことに向かわせたのではないだろうか。実際、晴美さんもカラオケで歌うシーンが少し流れたが、かなり歌は巧い。


で、二人を観て育ったジェロが、こうなったと。

「おばあちゃんとお母さんの会話が、日本語になるときが度々あって、子供の頃、僕はその中に入りたかったんです。何を言っているのか知りたかった。」と彼が語っています。


だから、ジェロが登場してきた背景には、必然があったんですね。母娘孫三代の、辛い年月と、他人には推し量れない、日本への悲しみと憎しみと、同じぐらいの愛情と。それを彼は受けてしまった。感じ取ってしまった。で、演歌に行き着いた。


・・・それともう一つ。名前は忘れたが、彼の担当ディレクターがなかなか偉い。「ド演歌と歌謡ポップスの中間でいく」「カラオケで歌いやすい易しい曲はあえて目指さない」などの基本方針も、このディレクター氏が立てているという。


「カラオケで誰しもが歌える曲を、という考えが、演歌を駄目にしたと思うんです。どれも同じような歌で、コブシでガナって。ジェロにはそれはやらせません。ジェロには「これぞプロ中のプロ!」と言われるような歌を歌ってほしい。」彼も哲学を持っている。レコーディングで、ジェロに容赦なくダメ出しをし、二人の間に緊張が走るシーンも放送されていた。


番組中、もちろんジェロの歌も、何曲か織り込まれていた。アレンジなどは確かに、演歌というよりはR&B。ファンキーなリズム処理や、ブルーノートを頻繁に使ったオブリガートなどもいたる所に出てくる。確かにこれなら、私にも聴ける。


でもねえ。やっぱり「忍ぶ恋」だの「身を投げましょうか」だの、この歌詞の世界は、どうしても勘弁してほしい。こういう負の感情を表現すること自体は否定しないけど、もっと別な言葉が無いんだろうか。これを別な言葉にすると、演歌じゃなくなっちゃうんだろうか。


ともあれ、演歌歌手ジェロの誕生の経緯については、大いに納得させられました。家庭環境からくる必然であると同時に、いくつもの偶然の条件が揃った、とても大きな奇跡でもありますね。