五線親父の縁側日誌

永遠の70年代男・テリー横田の日誌です。

筆者は田舎の初老爺、下手の横好きアマチュア作曲屋、70年代洋楽ポップス愛好家、70年代少女漫画愛好家、
女子ヴァリボ&フィギュアスケートオタ、Negicco在宅応援組です。

どうせなら献体?


■死生観に変化、献体希望者が急増

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080322-00000034-yom-soci


・・・医大生の解剖実習のため、自分が死んだら遺体を使ってほしいと言う「献体」が、ここ10年増えているという。以前は医大で苦労して集めていたのに。


・・・どういう心理からそんな申し出をするのだろう? 身よりもいない一人暮らし老人や、夫婦二人だけの老人とか、そういう方が考えるのだろうか? 通夜・葬式という形ばかりの儀礼に、結構膨大な時間と金・手間暇をかけるなら、いっそやめるか簡略に済ませ、献体という世の中の役に立つことに、自分の遺体を使いたい。そういう思いからでしょうか。


・・・献体となったら、お葬式はどうなるのでしょう。大学側ではもちろん供養はあるでしょうけど、身内親族友人知人を集めた「セレモニー」はなくなるわけでしょう。もとよりそれに意を反しての「献体志願」なのでしょうし。確かに現代の日本の仏教は特に、制度形骸・産業化してます。真の追悼心はそんな嘘っぱちに頼らず、ひとりひとり心の中にあれば良い。それも真理だと思います。


でもそうすると、残された者たちは本当に助かるのでしょうか。もちろん、今の葬式はうざいです。でも昔は、それこそ近所共同体で行っていたものでしょう? 供養宴とかああいう様式は、来てもらった人への謝意とか、それなりの意味があったと思うんですね。その意味をあまり検証せずに、様式だけをそのまま現代に持ち越したおかげで、いろいろ矛盾が生じている。


お葬式、葬祭セレモニーは、それをひとつ「心の中のけじめ」として、悲しみを忘れる努力を、時間をかけて始める、最初のきっかけにする部分ってないでしょうか。格式ばかりの儀礼ですが、葬祭がまったくないと、周りの者が一歩を、踏み出せないのではないかしら。


通過儀礼、葬祭の意義は「残された者がけじめをつけるための機会」そこにあると思う。それが時代の変化とはいえ、すっぽり抜かすのは、どうなのか。ちょっと考えてしまいます。


それと、私が「献体」と聞いて「げ」と思ったのは、死体をいじること・いじられることへの抵抗感。臓器移植ドナー登録などもそうですが、いくら理性で割り切って考えても、自分はかなり抵抗感があるのですね。死後自分の体が切り刻まれるのは嫌だという思いがあります。ましてや父母肉親となれば、もっと嫌だ。これは以前にも書いたことですが、理性よりもこういう「なんとなくいや!」って感覚を、大事にしたいと思うんですね。とくに命の問題では。


イエや地域社会の崩壊と個人主義の是認。この献体増のニュースは、その結果の一端を表しているんでしょうけど、本当に納得して「献体したい」と思ってらっしゃるのか。それはちょっと疑問だと思います。本当は、子孫ひ孫、近所友人同僚仲間、皆に囲まれてにぎやかに死にたいけど、それがかなわぬ願いだから・・・というのなら、それこそ悲しいですね。


※追記

実際にお身内が献体のご遺志だった方にお伺いしました。献体の場合でも、お通夜、お葬式はちゃんと行ってから、大学病院の車で、遺体は大切に運ばれていくそうです。