五線親父の縁側日誌

永遠の70年代男・テリー横田の日誌です。

筆者は田舎の初老爺、下手の横好きアマチュア作曲屋、70年代洋楽ポップス愛好家、70年代少女漫画愛好家、
女子ヴァリボ&フィギュアスケートオタ、Negicco在宅応援組です。

米田さんと松平さん


・・・女子バレー元全日本監督、米田一典氏が逝去。みそかに元男子監督の松平康隆氏と、たてつづけにヴァリボ指導者が亡くなってしまった。


あまり戦績には恵まれなかった米田さん。大林・中田を擁しながらバルセロナ5位。戦犯監督とまで言われた。やがて勤め先の日立チームが解散、米田さんは路頭に迷う事になる。でもめげずに四国に渡り、88クイーンズを結成。これは本当に大変だったと思う。しかしそれも資金難で仙台に縮小移籍。震災に遭いながらもなんとかチームをまとめ、これからという矢先だった。全く波瀾万丈だった。名将と言われるようになった柳本さんとはえらい違いだ。


松平さんはもう伝説の人だ。1972年ミュンヘン五輪男子金メダル監督。速攻、時間差攻撃、移動攻撃等、現在の攻撃パターンの基礎は、もう松平さんが全部考えたと言ってもいい。選手に俊敏な動きをさせるため、サーカスまがいの練習をさせたり、逆立ち歩行できるバランス感覚がないと五輪に連れて行かないとか、無茶な部分もあった。


宣伝・プロデュースのやり方もすごい。男子ヴァリボの人気を獲得するため、選手に臭いキャッチコピーをつけ、芸能雑誌にアイドルばりに売り込む。チームを描いたアニメ「ミュンヘンへの道」なんてものまで作らせた。外国に遠征に行けば、共産圏の敵チーム情報を得るために、スパイや袖の下まで使ったとか(まあこれは誇張だろうが)


その後、協会の会長職も歴任。現在のヴァリボの主要国際大会が、日本開催が多いアドヴァンテージも、ひとえに松平さんの力も大きかったのではないかと思う。


熱い指導者は選手にとっては、もはや迷惑な存在であるような時代になってしまった。ガッツなんて言葉は死語だが、金メダルをめざすようなスポーツ指導者は、どこかいびつなまでの上昇指向が無いと勤まらないのではないか。ただそれは個人的なカネとか名誉だけでは続かない。どこか「お国のため」「自分の理想のため」がないと。その意識が持てるだろうか。