五線親父の縁側日誌

永遠の70年代男・テリー横田の日誌です。

筆者は田舎の初老爺、下手の横好きアマチュア作曲屋、70年代洋楽ポップス愛好家、70年代少女漫画愛好家、
女子ヴァリボ&フィギュアスケートオタ、Negicco在宅応援組です。

チャップリンの秘書は日本人だった

■「チャップリンの秘書は日本人だった」国営放送の番組から

http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2008/0106.html


・・・お正月に放送した番組の再放送らしいが、これは面白かった。恥ずかしながらチャップリンの秘書・高野虎市氏のことは全然知らなかった。


広島生まれ。裕福な庄屋の息子だったが、判で押した人生は嫌だとわずか15才で渡米。このへんの思い切りがすごい。大正から昭和初期の18年間、チャップリンの秘書として、黄金期の彼を支えた。


戦前の数度の来日にも当然同行した。チャップリンは来日の際、五・一五事件の首謀グループから「敵性退廃芸術を広めた」として、狙撃の対象にすら入っていたという驚くべき事実。これを高野さんが察知し、「皇居に向かって会釈」させる機転で難を逃れたくだり。これなんぞ鳥肌が立ちます。(@@)


しかし二人の信頼関係は、チャップリンの新妻ボーレットと高野との軋轢から破綻する。秘書を自ら辞し再出発を図ろうとする高野。しかし戦争の足音聞こえる中、彼は妻を亡くし、さらに自身もFBIによってスパイ容疑をかけられ、強制収容所に収監されてしまう。


チャップリンヒトラーを風刺した「独裁者」から、政治・社会的な色合いを強めていく。しかしそれはアメリカ政府からマークされる結果となり、戦後、東西冷戦がはじまると、彼は共産主義者とされ事実上の国外追放処分となってしまう。名誉回復までは20年、ベトナム戦争終結まで待たねばならなかった。


高野も太平洋戦争が終わってなお3年も収容所で過ごす。解放後は、弁護士秘書として在米日系人の市民権回復運動のための仕事につくこととなる。同じ秘書でも芸能マネージャーとは正反対の地味なものだったが、高野は実に生き甲斐を感じていたようだった。昭和30年代に広島へ帰郷。後も、日系人の権利回復のための日本側の窓口として80才を過ぎるまで働くこととなった。


で、この高野さんが晩年帰国なさった際、事実上の結婚をなさっている。その奥さんがまだ広島でご存命なんですが、なんというか尽くされた方でね。「オレは死んだら墓はアメリカだよ。申し訳ないけど、オマエの側以外にも、行くところがあるんだよ」という(ちょっと創作、笑。)遺言にも、だまって付き従って、最期を看取った。仏壇にコーヒーと厚焼きトーストをあげながら「あんたは私の入れるコーヒーを下手だ下手だ言うとったけど、我慢して飲んでくださいね」とおっしゃった時には、涙が出ました。(TT)


昭和36年チャップリン最後の来日の時、「会いに行ってはどうか」という周囲のすすめに、高野氏は「もはや道は違うのだ」と、悲しげに答えたという。


波乱の時代、喜劇王の傍らで生きたこの人の人生もまた、見事な人生だったと思う。