五線親父の縁側日誌

永遠の70年代男・テリー横田の日誌です。

筆者は田舎の初老爺、下手の横好きアマチュア作曲屋、70年代洋楽ポップス愛好家、70年代少女漫画愛好家、
女子ヴァリボ&フィギュアスケートオタ、Negicco在宅応援組です。

会津のじょっぱり・山本八重


・・・TV番組「日本史サスペンス劇場」をみた。日本の歴史上の人物を毎回一人取り上げ、その生涯をドラマ仕立てにして見せる番組だ。以前から結構好きでよく見ていたが、今日は「会津ジャンヌダルク・山本八重」という人を取り上げていた。これが、面白かった!


■幕末女傑列伝「山本八重」

http://www.bakusin.com/yae.html


・・・恥ずかしながらこの、山本八重さんのことは、私は全く知りませんでした。会津は今でこそ福島県だけど、私がいる岩城の国とはちがう国だったしね。


・・・砲術指南役の家に産まれた八重は、子供の頃から男勝り。米俵をひょいっと担ぐ怪力である。さらに父が試しにやらせてみた鉄砲の腕も、兄たちをしのぐほどの腕前で、城下でも有名な女傑娘だった。


時代は幕末。動乱の時代。新撰組のスポンサーでもあり、最後まで幕府方についた会津は、薩長が権力を握っていく中、いつのまにか逆賊のそしりを受ける。そして始まった戊辰戦争。長州軍は圧倒的な火力で会津を攻める。悲劇の少年兵士の物語として「白虎隊」の話は有名だ。若松城(現在の鶴ヶ城)では、一ヶ月以上もろう城・抵抗し、長州軍を苦しめたという。その中でも一番の射撃の名手・スナイパーとして長州軍を手こずらせたのが、山本八重その人だったという。


会津若松城下に火の手が迫ったそのとき、京都・鳥羽伏見の戦いで兄弟を失った八重は、その敵討ちと、故郷と主君を守るため、戦いを決意する。髪を自ら切り落とし、学者だった夫と離縁をして、当時最新の七連発スペンサー銃を片手に、藩主松平容保のもとへ駆けつけたという。その後一ヶ月間、鉄砲隊の先陣を切って、砲手として毎日撃ちまくったというからすごい(++)あるときは、飛んできた敵の大砲の弾の導火線を、身を挺して火を消し、爆発を防いだ。「これでこの火薬から、こっちの銃の弾が作れる」と言ったという。


ねー、こんな女傑が、幕末の会津にいたんですねー。すごいすごい。


で、一ヶ月後、会津は降伏します。八重は生き延びますが、失意の中、戦争について、人の生と死について、密かに思い悩むようになっていったことでしょう。


物語はこれで終わりません。死んだと思っていた兄が、盲目になりながらも京都で生き延び、府の顧問として小学校の開校に尽力したりしていたのです。八重は兄を頼って京都へ向かう。そこで一気に「西洋文化」を見ていきます。英語をマスターし、教師となった八重は、運命の出会いをします。同志社大学を開いた教育者・神父の新島襄(にいじまじょう)です。


「あまりに暑い夏の日、裁縫の針も手につかないので、涼しい中庭の井戸の上に、得意の怪力で雨戸をはずして渡し、一歩間違って落ちたら命が無いかもしれない井戸の上で、涼みながら裁縫をしていた」そんな八重の姿を見て、新島は「この人」と決めたらしい。やがて二人は結婚し、血の戦いを経験した八重もまた、キリスト教によって慰められていったのでしょう。


新島亡き後の晩年、八重は赤十字の活動に加わり、日清・日露戦争では看護婦として働いたりしています。反戦と人道の思いがあったのでしょう。ハイカラな西洋文化と同時に茶道にものめりこみ、裏千家の免状をとったりしています。運命とはいえ戦争に加担した罪と孤独感も、あったのかもしれません。


しかし最晩年の八重はあくまで穏やかで、同志社の大学生からは「新島のおばあちゃん」と慕われ、昭和の時代まで長生きしたそうです。